岩坂彰の部屋

第6回 翻訳環境の話

岩坂彰

これをご覧のあなたはBGM派でしょうか? それとも、仕事のときに音楽は邪魔ですか?

私は、翻訳作業中はコンピューターの空冷ファンの音さえ気になるほどで、音楽はクラシックでもうっとおしく感じます。まして歌詞の分かる歌だとそっ ちに気を取られてしまいますし、調べ物の途中にYouTubeで懐かしのカーペンターズのクリップなど見つけてしまったときには……1時間は仕事が進みま せん。ところが、索引の整理のような作業になると、ちょっとBGMがあると仕事がはかどるんですね。不思議です。たぶん作業で使う脳の回路と、音楽を聴く 回路との干渉の問題なんでしょうけれど。

翻訳をするのにどんな環境が望ましいかということは、人により、作業の中身によりで、一概には言えないと思います。でも、環境の整え方は間違いなく 仕事の結果に影響します。私の場合、うるさい中で無理やり翻訳すると、文章がぶつ切りになります。音環境だけではありません。コンピュータ作業も含めて、 仕事をする環境全体が大きな意味を持ちます。

マシンやツールについては、以前お隣の原田勝さんもご自分の環境を紹介されていましたが、今回は、コンピュータ以外のことも含めて私の仕事環境を紹介しましょう。本当に「岩坂彰の部屋」です。みなさんご自身の環境を整える参考にしていただければと思います。

入力環境

これが私のコンピュータ周りです。自宅外で仕事をすることも多いので、メインのマシンはノートパソコン(Windows Vista)です。写真だと分かりにくいかもしれませんが、左に見えているのがノートパソコンの画面です。右側は外付けのモニターで、2画面つなげて使っ ています。このような画面拡張機能はご存じない方も多いようですが、マウスポインタは普通に左右行ったり来たりできますので、非常に便利です。単純に画面 が2倍の広さになるとお考えください。

正面のノートパソコンの画面はエディタやメールといったメインのツール、右側の画面はウェブブラウザなどの参照ツールです。翻訳対象が電子テキスト の場合は右画面に置きますが、本の場合は、正面画面の手前、ノートパソコンのキーボードを覆う台の上に置きます(台は自作)。本の文字が小さいときには拡 大コピーをすることも。最近、老眼が進んできたということもありますが、拡大コピーをすると書き込みが楽ですので、コピーの時間は取られますけれども、作 業効率は上がります。

入力用のキーボードはさらにその手前に外付けで、ご覧のようにエルゴノミック・キーボードです。昔は腱鞘炎に悩んだものですが、今はこれのおかげで かなり楽です。マウスが映っていませんが、キーボードの左にあります。これは腱鞘炎のおかげなんですが、マウスは左右どちらの手でも使えます。

日本語はATOKでひらがな入力。今どきひらがなで入れてる人なんて珍しいんじゃないでしょうかね。そういえば、昔ワープロ時代にあった親指シフトって、今もあるのかなあ。

ツール環境

ブラウザはFirefox。タブをたくさん開くことが多いので、左タブです。左タブにできるアドオンを入れています。その他、検索語をハイライトするアドオンとか、画面上の単語をクリックすると簡単な意味を表示するソフトなどを入れています。

メーラはBecky!、エディタは秀丸とWZです。原田さんと同じく、仕上がりが縦書きになる本を訳すときは、エディタも縦書き設定にします(ファ イルのエクステンションを.txttにすると、自動的に秀丸が縦で立ち上がるように設定してあります)。縦書きになるものを横書きで訳すと、あとで縦書き 印刷して読み直したときに、読点の頻度とか、何かリズムが違う感じになるんですよね。フォントや字詰めも重要ですし、細かいことですけど、エディタの背景 色も、真っ白ではなくて、ちょっと薄いクリームというか、紙に近い感じにしてあります。

電子辞書は、検索ソフトのJammingに、 リーダーズ・プラス、ランダムハウス、ジーニアスの英和辞書のほか、英英辞典、シソーラス、各種専門辞書、オリジナル辞書、ついでに聖書データまで、何で も詰め込んでます。作業の種類によって辞書グループを切り替えて串刺し検索します。Jammingは通常2つ立ち上げてあり、片方は普通の単語検索、もう 片方は複数語AND検索モードにしてあります。電子辞書では、複数の語のつながりを調べることがけっこう多く、いちいちモード切替をするのが面倒なので、 最初から2つ立ち上げてるわけです。たとえばice the cakeなんていうフレーズがあって、イディオマテックな言い回しなのかな、と思ったときに、iceの単語検索から調べてもいいんですけど、複合語用の方 に「ice cake」と入力してやると、iceとcakeを含む用例が、研究社の英和活用大辞典やロングマンのExamples bankあたりからずらっと並ぶわけです。iceの項目で意味だけ調べるよりニュアンスがずっとよく分かります。同じようなことはGoogleでもできま すけど、やはり辞書のほうが効率的(to ice the cakeは「駄目を押す」というニュアンスのようです)。

その他テキスト加工ツールとして、BuckeyeさんのSimplyTermsを使ってます。単純なリスト置換には Speeeeedを。 このあたりは産業翻訳系の方のほうがずっと詳しいでしょうが、私がやっているような学術に近い出版翻訳にも索引というやっかいな問題があって、テキスト加 工ツールを使いこなせれば、用語統一も含めてかなり労力を省けると思います。が、私もそのつど試行錯誤という感じで、まだ決定的なやり方は確立していませ ん。これについてはまたいつか書きたいと思っています。出版社で使っている索引ツールと連動させられるといいんですけどね。

ついでに、ツールじゃないですけど、壁紙も気分で変えます。わりと浮世絵が多いですね。春信、広重、北斎。Google Imagesで取ってきます。ウィンドウ枠の色や、Firefoxのテーマ(スキン)も、仕事によって変えたりします。

作業スペース環境

プリンターを挟んで、パソコンデスクと書き物デスクを90度(80度くらい?)に配置。作業スペースは絶対に広い方がいいです。何でもすぐに片付け られる性格の人なら問題ないかもしれませんが、私の場合、知らないうちにものが積み上がっていきます。で、何か調べ物で引っ張り出そうとするときに、その 前に、場所を作るためにものを片付けなければいけなくて、それが面倒で調べ物を怠るなんてことが起こりうるんですね。だから、広い方がいいのです(それよ り性格を直した方がいい?)

人間の脳のキャパは限られてますから、コンピュータにせよデスクスペースにせよ、言ってみれば私たちは脳の機能を一時的に外に振り分けてるわけで す。英語が大の苦手だった私は、そのつもりで早い時期からコンピュータや電子辞書を取り入れてきました。これがなかったら私が翻訳の仕事をするようになる ことなど絶対になかったでしょう。またしても一部の方には分かりにくい喩えかもしれませんが、たとえばコンピュータの性能というのは、けっしてCPUのク ロックスピードではないのです。バスの幅やメモリの大きさがスループットに決定的に影響します。バスの幅というのは、この場合操作のしやすさ、メモリの大 きさが作業スペースの広さです。さしずめ本棚がハードディスクなどの大容量記憶装置といったところでしょうか。場所を確保するということ自体、費用がかか ることなんですが、組み込みメモリの小さな私の頭でまともな仕事をするには、こういう環境は不可欠なのです。

椅子も大切ですよ。私は、ひょっとすると、人生の中でベッドの上にいる時間よりこの椅子に座っている時間の方が長いかもしれません。座面の上であぐらをかけるよう、肘掛けは取ってしまいました。

脳内環境

最初に書きましたように、BGMを使うかどうかというのも環境の作り方の一つです。仮にBGMをかけるにしても、バロックとレゲエでは訳文のリズム が変わるんじゃないでしょうか。いや、BGMをかけていなくても、頭の中でさっき聞いたCM曲とか、ヌ~ブラヤッホ~とかがリフレインしていたら、絶対に 訳文に(悪?)影響が出ます。昔、実験してみたことがあるんですが、夏目漱石を読んで、すぐに翻訳してみると、訳文の調子が変わってくるんですよ。ほんと に。

1冊の本に何ヵ月もかかっていると、文の調子を一定に保つというのがけっこう大変です。かといって、毎朝漱石を読んでから仕事をするわけにもいきま せん。何か一定のモードに入れるきっかけがあればなあ、と、半畳の畳風の敷物を購入しました(うちのマンション、畳の部屋がないので)。ここでちょっと 座ってみたりしています。座禅とか瞑想とかいうほどの大層なことではないのですけれど、気分転換にはなります。

けれども何といっても究極の気分転換は、寝ることかもしれません。この歳になると、正直、頭が一日保ちません。ぼんやりしてきたら、すぐに横にな る。10分か15分で頭がリフレッシュします。もっとも、夜ちゃんと寝ていないと、ちょっと10分のつもりが2時間3時間寝てしまうことになります。結局 のところ、基本的な1日のリズムをしっかり保つことがいちばん大切だというのが、最終的な結論です。翻訳は身体が資本。健康的な生活がいちばんです。

(初出 サン・フレア アカデミー WEBマガジン出版翻訳 2008年7月28日号)